蓼科・八ヶ岳での田舎暮らし

神々の宿る 蓼科八ヶ岳物語

その2 武田信玄の棒道

甲斐の武田信玄が諏訪を平定後、北信濃攻略のために八ヶ岳裾野に切り開いた道が 「信玄の棒道」と呼ばれているものです。

いくつかある「信玄の棒道」のうち、上の棒道と呼ばれている道は、八ヶ岳南麓をほとんど標高1,300mのところを、真直ぐに通っていました。それは、ほぼ現在の鉢巻道路のあたりで、富士見町から立場川を越し、原村、一ツ石神社、雀ヶ森、綱置場を通過し茅野へ入るルートのようです。

一方、上の棒道と他の棒道をつなぐ連絡道も早くから知られていました。連絡道は中の道と呼ばれ、上の棒道(鉢巻道路)から泉野中道の集落を通り抜け中沢(なかッさわ)に至りここで横の棒道と合わさり柳川を渡っています。この泉野中道周辺には興味深い地名が残っています。

戸屋坂(とやのさか)、茶立場(ちゃたてば)、陣衆道(じんしゅうみち)、馬寄場(うまよりば)、などです。

戸屋坂の戸屋は城跡の意味、陣衆道は兵が通った後、馬寄場は馬を休ませた場所のようです。また、茶立場は信玄がお茶を立てて飲んだ場所とも言われています。

まさに武田信玄は、諏訪大社上社の広大な狩場、神野物語その1参照)のど真ん中に、棒道を築いたということです。



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